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清泉メッセージ
201609.05
No105「ガリレオとキリスト教」
今朝は、宗教裁判にかけられ、「それでも地球は回っている」という言葉を残した、ガリレオ・ガリレイについてお話しようと思います。
ガリレオというと、カトリック教会と天文学を思い浮かべる人が多いと思います。地球が天空を動くという、地動説を唱えたガリレオを断罪した当時の教会は、科学の進歩を妨げた悪玉のイメージで捉えられています。しかし最近の研究によって、教会が科学を弾圧したという図式は、後世になってからの考え方で、実際は、教会内外のさまざまな思惑や打算が絡み合った陰謀によるもの、だということがわかってきました。
近代科学の父といわれるガリレオは、観測事実だけを手がかりにして、宇宙を含めたあらゆる自然現象を理解しようと考え、その自然現象の記述に数学を用いようとしました。
それまで自然現象は、宗教的に「どうあらねばならないか」という解釈が重要視されてきた中、ガリレオは自然を「どうあるか」という実証に基づいた、科学の対象へと置き換えたのです。
しかしながら、ガリレオは教会そのものや聖書の記述に反論するつもりはありませんでした。彼にとって「聖書」は、神から示され、神の命令によって真理を記した書物であり、一方、宇宙や自然現象も、神の命令を忠実に実行する、いわば「第二の聖書」でした。つまり、「聖書」も「自然現象」も、ひとしく神の言葉に基づいたものだったのです。
科学者であると同時に敬虔なキリスト者でもあったガリレオは、このように、宇宙をもう一つの聖書として捉え、神がこれを数学的に造られたと考えていました。また、当時の聖書はラテン語で書かれており、ラテン語を習得しなければ読みこなすことができなかったように、宇宙という聖書は数学という言葉で書かれており、数学という言葉でなければ正しく読むことはできない、と考えていたのです。
ところが、聖書の記述と科学との間に不一致が生じてしまうことがあり、ガリレオは科学者として、どうしても聖書の読み方そのものの誤りについて言及せざるを得ず、そうしたことが、地動説に反対する人たちの反感を買ってしまい、ひいては宗教裁判に結びついてしまったのでした。
このことについて、彼は次のように語っています。「聖書の記述は、ある場合には、これを文字通りに受け取ると、かえってその真意から外れてしまうことがある。聖書は、もっぱら魂の救いについて教えているのであって、科学や天文学を教えているのではない。だから、科学全体を否定してしまうことは、聖書の何百もの箇所が誤りだということと同じことになってしまう。」
裁判からおよそ350年ののち、時の教皇ヨハネ・パウロ二世により、調査委員会が設置され、ガリレオの宗教裁判に関する公平な審議が促され、1992年になって、晴れてガリレオの名誉は回復されることになったのです。
夜空に浮かぶ月や星を見ていると、私たちはさまざまな思いに誘われます。宇宙の起源は?宇宙の果ては?宇宙は何のためにあるの?
最新の科学技術により、これまで宇宙について数多くの事実が発見されてきました。しかし一方で、宇宙について私たちが知ったことは、ごく僅かであるということもわかってきました。まさに宇宙は神秘そのものです。でも、その神秘的な宇宙の理解に挑戦する私たちもまた、神秘そのものなのかもしれません。
これで私の話は終わりです。お立ちください。神秘的な声で聖歌を歌いましょう。
(2016年9月3日、放送朝礼より。写真出典:https://en.wikipedia.org.)