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202203.04
校長講話No.204「足あと」(2021年度高校卒業式式辞)
今年の冬は例年になく雪がよく降り、朝起きると一面銀世界という日も珍しくありませんでした。かつて、地球温暖化ということが言われていなかった頃の冬を思い出しました。
コロナ禍が始まり、3年目の春を迎えています。皆さんの青春時代である高校生活の2年間は、コロナウイルスと向き合う日々でもありました。旧約の時代を生きた人々が身の回りに起こる出来事に神様の言葉、メッセージを読み取った様に、私たちもコロナ禍の出来事から神様の言葉を聞き、生活のあり方を振り返っていきましょう。
高校3年生の皆さん、本日はおめでとうございます。皆さんは皆さんの貴重な時間を3年間、あるいは6年間、このカトリックの長野清泉で過ごしました。今はこの学校で過ごしたことの意味がはっきりとはまだ分からないかもしれませんが、いつか長野清泉での学びにどのような意味があったのかが、きっとわかる時が来るでしょう。
保護者の皆様、本日は誠におめでとうございます。卒業生が今日のこの日を迎えることが出来たのも保護者の皆様の支えがあったからです。生徒たちも今そのことをかみしめていることと思います。
今日は、「足あと」についてお話をしたいと思います。まず、「足あと」という題名のついた二つの詩を紹介します。その後遠藤周作の小説で扱われた「足あと」についてお話しします。
まず、2つの詩についてです。
一つ目は茨木(いばらぎ)のり子という詩人の詩です。茨木のり子は「見えない配達夫」、「自分の感受性くらい」、「寄りかからず」など多数の詩によって知られる詩人です。1992年、66歳の時に刊行した詩集の中に「足跡」という詩があります。青森県は六ケ所村にある縄文時代の遺跡から、生まれて間もない乳児や幼児の足跡を土版(どばん)、土の板と書きますが、に押し付けた足跡が出てきました。彼女はその足跡を見た時の体験を詩にしました。その一部を読んでみます。
「わたしにはかなしいことがあって
よれよれに泣き尽くし
涙腺も凍結
感情も枯れ枯れ(がれ)で
心動かされることはなにひとつ無くなっていたのに
小さな足はポンと蹴ってくれた
わたしのなかの硬く痼(しこ)ったものを
それにしても
おまえは何処へ行ってしまったのだろう
三千年前の足跡を
ついきのうのことのように
残して」
とても悲しい出来事に打ちひしがれていた茨木のり子は青森県六ケ所村で三千年前の小さな子供の足跡を見る。その足跡を見ると硬くなっていた自分の心が柔らかくほぐれていくのを感じる。そんな体験を詩にしています。
ずっと昔、縄文の時代を生きた人々も足跡を大切にしていたことが分かります。そしてその足跡を大切にする心は現代に生きる私たちにもよく分かる。だからこそその足跡は茨木のり子の心に訴えかけたのでしょう。
2つ目の「足あと」という詩についてお話しします。カナダ人のM.パワーズという方の書いた詩です。有名な詩ですので皆さんの中にもきっと聞いたことのある方がいることでしょう。私はある時シスターから頂いた葉書にその詩が印刷されているのを見て、その時に初めてM.パワーズの「足あと」という詩を知りました。少し長い詩です。シスターが下さった葉書の詩は一部が省略されたものです。今日はその省略されたものをお読みします。
ある夜 わたしは夢を見た
神様と二人並んで わたしは砂浜を歩いていた
・・・・・
砂の上に 二組の足あとが見えていた
一つは 神様の そして一つはわたしのだった
・・・・・
しかし 最後にわたしが振り返って見たとき
ところどころで足あとが一組だけしか見えなかった
・・・・・
「わたしの愛する子どもよ
わたしはけっしてお前のそばを離れたことはない
お前がもっとも苦しんでいたとき
砂の上に一組の足あとしかなかったのは
わたしがお前を抱いていたからなんだよ。」
この詩にはイエス・キリストのまなざしが象徴的にうたわれているように感じます。新約聖書の4つの福音書に描かれたイエスの姿を見ると、イエスは常に社会の中で弱い立場にいる人々、皆から忘れ去られてしまった、あるいは皆から蔑まれている人たちのそばにいます。
このことは今日是非心に留めておいてほしいと思います。皆さんが困難な時を過ごしている時、何か失敗をしてしまった時、友達がいないと感じる時、誰も自分の方を向いてくれないと感じる時、そのような時にこそ、イエスは皆さんを見ている。そして、「イエスがそばにいる」ということを思い出したら、新約聖書の4つの福音書をどの場所でもいいので開いて、少しずつ読んでみて下さい。1日、5分でもいいでしょう。ちょうど茨木のり子が三千年前の子どもの足跡を見て心が少し軽くなったように、4つの福音書のイエスの言葉、行動に触れればきっと皆さんの心に変化が生まれるに違いありません。
さて、最後に遠藤周作の小説のことをお話ししましょう。ここ3年、コロナ禍で長崎への聖地巡礼の旅に行くことが出来ていませんが、長野清泉では聖地巡礼の旅に出かける前に遠藤周作の小説、『女の一生 1部キクの場合』、『女の一生 2部サチ子の場合』を読みます。そして、長崎ではかくれキリシタンの里である外海(そとめ)に行き、『遠藤周作文学館』を訪れます。
2020年の2月、今から2年前にその遠藤周作文学館で資料の中から『影に対して』という未発表の小説が発見されました。遠藤周作の自伝的作品と言って良いでしょう。彼の母親を巡る物語です。これは私の推測にすぎませんが、遠藤周作は自分が死んだ後きっと誰かがこの小説を発見して世に出してくれると思っていたのではないでしょうか。
今日は「足あと」についてお話をしていますが、この『影に対して』という小説の中に「足あと」について語られるとても印象的な場面があります。これは遠藤周作が実際に母親から直接聞いた話であると思います。その部分をお読みします。
「アスハルトの道は安全だから誰だって歩きます。危険がないから誰だって歩きます。でもうしろを振りかえってみれば、その安全な道には自分の足あとなんか一つだって残っていやしない。海の砂浜は歩きにくい。歩きにくいけれどもうしろをふりかえれば、自分の足あとが一つ一つ残っている。そんな人生を母さんはえらびました。」
私自身のことを振り返ってみても、辛い体験、苦しい出来事のことはよく覚えています。2月の登校日に皆さんにお話ししましたが、辛い体験、苦しい出来事の中に、自分にとって貴重なものを見つけたり、大切なことを発見したりします。遠藤周作の小説の中の母親の言葉は、目の前にアスファルトの安全な道と、苦労の多そうな砂の道が続いている時、あなたはどちらの道を選びますか、と問いかけているようにも思われます。
先程お話ししたように私たちは大変な道を歩いている時にイエス・キリストの存在を身近に感じます。言い換えればアスファルトの道を歩いている時にはイエスの存在に気付かない、と言えるかもしれません。
これからの人生では好むと好まざるとに関わらず、きっと苦しい道を歩くことがあるでしょう。その時には是非二つのことを思い起こして下さい。一つは、そんな時にこそイエスが近くにいるということ、もう一つはそういう時にこそ皆さんの人生に足あとがしっかり刻まれるということを。
以上を式辞と致します。