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校長講話

201603.31

校長講話_47「中学卒業式式辞『平和を実現する人々』」

DSC01023.JPG 中学3年生の皆さん、卒業おめでとうございます。皆さんは、人生の最も感受性豊かな時代の3年間を、この長野清泉女学院中学校でお過ごしになりました。私は、様々な場で、皆さんが一回りも二回りも成長する姿を目にすることが出来、そのたびに頼もしく思ってきました。

 保護者の皆さま、本日はおめでとうございます。子供たちは、自分の力だけで成長することは出来ません。今日、中学卒業の日を迎えることが出来たのも、保護者の皆さまの大きな愛があったからこそと、感謝致します。

 ご来賓の皆さま、いつも本校を暖かく見守って下さっていることに、感謝申し上げます。また、本日はお忙しい中、卒業式に御臨席を賜り、誠にありがとうございます。

 さて、明日は、カトリック教会の暦では、イースター、復活祭です。イースターとは、十字架にかけられたイエス・キリストが三日目に蘇ったことを祝う日です。クリスマスは12月25日、1年のうちで最も日が短い頃です。人間にとっては寒く厳しい季節と言えます。その時期にイエスはお生まれになりました。そして、イースターは春分の日の後にきます。これから一日一日と日が延びていく希望に満ちた時期と言えます。イエスは、一年の内で最も厳しい季節に生まれ、希望の季節が始まる時に復活をなさった。何かとても象徴的な気が致します。イースターの前日に中学校の卒業式を行えることを嬉しく思います。

 聖書を一箇所お読みします。マタイによる福音書の5章です。山上の説教と呼ばれているイエスの教えです。この山上の説教は「心の貧しい人々は、幸いである、天国はその人たちのものである。」という有名な言葉から始まります。9節をお読みします。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」もう一度お読みします。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」今朝は、「平和を実現する」ということについて少し考えてみたいと思います。

 私は、長野清泉女学院中学校を卒業する皆さんに、「平和を実現する人」になってほしいと願っています。平和とは、人間同士の関わりの状態を表す言葉ではないかと考えます。身近な世界で言えば、クラスの平和、学校の平和、さらには、アジアの平和、世界の平和といったものがあります。しかし、クラスも、学校も、アジアも、世界も、人間が構成しているものですので、やはり平和というものは人と人との関わりを言う言葉だと思うのです。

 皆さんは、この3年間で、様々なことを学び、体験しました。教科の学習だけでなく、宗教の時間、ミサでの神父様のお話し、あるいは錬成会、静修会での講話、グループ活動を通して、イエスの生き方、また語ったこと、伝えようとしたことについて学び、考えてきました。今日はそのことを思い出しながら、話を聞いてもらえれば、嬉しいです。

 先程、クラスの平和、学校の平和、アジアの平和、世界の平和という例を挙げましたが、それよりもまず、私たちの心の平和というものがあるのだと思います。これは、人との関わりではありませんが、人と関わる時に、私たちの心の状態というものは大事になってくるはずです。

 卒業する中学3年生のお一人と話しをしていた時、その方はこういうことを話してくれました。この3年間で学んできたことの中で、「自分はかけがえのない存在なんだ」ということが心に残っている。時に考えがネガティブになってしまうことがあると、「自分はかけがえのない存在である」ということを想う、と話してくれました。私は、その話をとても印象深く聞きました。この生徒の言う、「考え方がネガティブになる」というのは、心が平和な状態ではない時であると思います。そんな時に、彼女は「自分はかけがえのない存在なんだ。」ということを思い起こすと言います。おそらく、皆さんの中にも、「私も同じだ。」と思っている方がいることでしょう。私は、この話を聞いてとても嬉しく思いました。なぜなら、このことこそ、長野清泉女学院中学校で実感してほしかったことだからです。

 「かけがえのない存在」ということについて考えてみますと、私は2つの大事な面があるのではないかと思っています。まず、一つ目ですが、「かけがえのない存在」というのは、何かが出来たからあなたは立派だ、とか、あなたにはこういう能力があるから素晴らしい、ということではない、ということです。「これを成し遂げたから」とか、「こういう能力があるから」という条件はなく、無条件で、あなたが存在していることが素晴らしいということなのです。カトリック学校に勤める若手の先生が、ある時、一人の司教に質問をしたそうです。「司教様、私は司教様のおっしゃる存在そのものの素晴らしさということが今一つ実感出来ません。」その司教は次のように答えました。「生まれたばかりの赤ちゃんに、私たちは何かを求めたり、期待したりするでしょうか。神様は生まれてきた幼子を見るような、慈しむ目で私たち一人一人を見ているのです。」

 「かけがえのない存在」のもう一つの大事な面は「他と比べようがない」ということです。「かけがえのない存在」というのは「他と比べようのない存在」ということです。聖書をもう一箇所だけお読みします。復活したキリストと出会い、その福音を世界に広めたパウロの手紙です。パウロはコリントという都市の教会の人々の間に争いが起こり、人びとの関わりが平和な状態でなくなっていると聞き、手紙を書きます。そして、人間の集団、特にイエスにならおうとする集団というものはどのようであるべきかを、一つのたとえを用いて説明します。ここでパウロは「かけがえのない存在」とはどういうものかを分かり易く教えているように思えます。

 コリントの信徒への手紙「一」の12章14節から22節をお読みします。
 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし、体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで、神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だ
から、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。

 パウロは人間の集まりを一つの体にたとえています。パウロが言っていることは、集団の中の人それぞれに役割があるということです。そして、もう一つの大切な点は、目、手、足、それぞれは「比べようがない」ということです。目と手をくらべても仕様がありません。パウロが伝えたいことは、人間の一人一人は比べようがない、かけがえのない存在である、ということなのではないでしょうか。

 私は、今日の話の最初に長野清泉女学院中学校を卒業する人は平和を実現する人であってほしいと話しました。人との関わりの中で、平和を作り出していくということは大変難しいことではありますが、それ程複雑なことではないのではないかと、私は考えています。自分が接する相手が自分と同じように神様に愛されたかけがえのない存在であるということを、常に心に留めて、人と接していく、それが平和を実現する第一歩なのではないでしようか。

 4月からの新しい生活が始まります。クラスの中で、学校の中で、また、社会の中で、是非平和を実現する人であって下さい。期待しています。以上を皆さんへのはなむけの言葉と致します。

(2016年3月26日、中学、卒業式、校長式辞より。)

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