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校長講話

202004.17

校長講話_NO.144「中学9期生卒業式式辞『この、世界中が困難な状況にある時に、皆さんと一緒に考えてみたいこと』」

1. 何を皆さんと一緒に考えてみたいのか

 多分、皆さんは新型コロナウイルスの流行の中で、今までに経験したことのない時を過ごしていることでしょう。私自身、自分が生徒、学生であった時から今に至るまで、学校がこのような状況に置かれたのは初めてのことです。

 このような時に、少し立ち止まって幾つかのことを考えてみたいと思います。「学ぶ」ということはどういうことなのか、日本という国のあり方、これから皆さんに高校生活をどのように送ってほしいのか、などを皆さんと一緒に考えることが出来ればと思います。最初に断っておきたいことですが、私は皆さんに私の考えを押し付けるつもりはありません。以下の文章を読んで、疑問に思ったり、あるいはそうは考えないと思ったり、これはそうかなと思ったり、自由に考えてもらえたら嬉しいです。

 話があちこちに行くことでしょう。今、皆さんにはいつもより少し時間があることと思います。最後まで辛抱強く読んでもらえれば、ありがたく思います。

2. まず、「学ぶ」ということについて

 「学ぶ」ということを考えてみると、「遊ぶ」ことと同じように実に幅広い「学び」があることに気付かされます。

 学校で皆さんは日々学びます。(残念ながら、今は学べない状況ですが。)学生時代は学校での学びが中心になるかもしれません。しかし、学生時代であっても、皆さんは自分の個人的な「体験」からも「学ぶ」でしょうし、また世の中の「出来事」からも「学び」ます。そして、私たちの生き方を形作っていく「学び」、私たちのものの見方を育てていく「学び」について言えば、教科の学びよりは、例えば先生方との対話、友との語らい、個人的な体験によって学んだことのほうが、大きな影響を与えていると言えるかもしれません。その中でも特に、「体験から学ぶ」ということは大事なことのように私には思えます。今回の新型コロナウイルスの流行と言う出来事からも学ぶことがあるはずですし、学ばなければならないのだとも思います。そのような考えもこの文章を書いた理由の一つです。

3. 「学ぶ」ということについて、その2。グレタ・トゥンベリさんの問いかけ

 今年度の放送朝礼で、スウェーデンのグレタ・トゥンベリさんのことを何回かお話ししました。ちょうど1年前の3月半ば、私は初めてグレタさんのことをNHKのニュースで知りました。国に対して地球温暖化対策を求め、週に1回、学校には行かず議事堂の前で一人で座り込みを続けているというニュースでした。その時、テレビ局のインタビューで彼女が話した言葉がとても印象に残りました。「学校に行くべきだと言う人もいるが、なくなる未来のために何故勉強が必要なの?」と彼女は話しました。

 「学ぶ」ということを、グレタさんの言葉から少し考えてみたいと思います。上で、私は学びにも色々な学びがあると書きました。「学校での教科の学び」、「体験による学び」、「世の中の出来事からの学び」、まだほかにもあることでしょう。グレタさんの下線の発言は「学校での教科の学び」よりも大切なものがある、と言っています。この発言、問いかけに対して正面からきちんと答えられる大人はいるでしょうか。皆さんはこの問いかけにどう答えるでしょうか。

 「なくなる未来のために」という言葉からわかるように、グレタさんは地球の現在について自分で「学び」を深めています。学校の教科、学校の先生から学んだこともあったはずです。それに加えて、新聞、テレビ、インターネット、様々なものからグレタさんは「学び」を深めたに違いありません。そして、彼女の「学び」の結果、学校に行くことよりももっと大切なことがある、と判断し、たった一人の行動を始めたのです。このグレタさんの問いかけと行動から皆さんは何を「学ぶ」でしょうか。

〇 私が考えること、皆さんに望むこと

 仮に、日本という国のあり方や、世界の状況のことを考えずに、ただ学校の教科の勉強だけをやって、良い成績が得られたとしても、それはとても狭い「学び」でしかないような気がするのです。 皆さんは4月から高校生になり、もうじき選挙権を持つ年齢になります。選挙で皆さんの判断が求められるということです。ワクワクしますか。緊張しますか。それとも、特に何も感じませんか。 日本では選挙で若い人たちの投票率の低さが問題になっています。私はこのことは今の政府のあり方、また、大人にも大きな責任があり、投票率が低いといって、ただ、若い人に「選挙に行きなさい。」というのはおかしなことだと思っています。が、ここではそのことに立ち入りません。

 2017年の衆議院選挙では、10代の投票率は40.49%20代の投票率は33.85%でした。それに対してグレタさんの暮らすスウェーデンの若者の投票率は80%を越えます。国全体の投票率も日本とは比べ物になりません。この数字だけをみて両国のあり方をどうこう言うことは出来ないと思いますが、選挙というものは国のあり方を大きく左右するものだと考えれば、投票率の高い国の国民は自分の国のあり方に高い関心を持っている、ということは言えるのではないでしょうか。私は、皆さんに選挙に関心を持ち、自分の判断で選択し投票の出来る若者であってほしいと思います。

4. 大人は体験から学んでいるか

 様々な大人がいますので、「大人は体験から学んでいるか」という言い方はあまりにおおざっぱな言い方です。「体験から学ぶことの出来る大人はどの位いるのだろうか」と言ってもいいかもしれません。

 今から9年前の2011311日、皆さんの中にはかすかな記憶として残っている人がいるかもしれませんが、東北地方を中心に東日本大震災が起こりました。翌日の312日、長野県の栄村も大きな被害を受けました。私は311日に学校にいて、イギリス語学研修に出発した高校1年生を見送り、職員室で仕事をしていました。午後3時前に、今まで経験したことのないような大きくて、長い揺れが続いたのです。地震と津波による被害は人間の想像をはるかに超えるものでした。さらに福島には原子力発電所があり、科学技術が発達したが故の大きな被害がもたらされました。

 その時、日本人の多くは次の様なことを実感したに違いありません。私もそうでした。

・今ある日常が当たり前ではない、この日々の暮らしを昨日と同じように営めることは、当たり前のことではない。

 ・経済、成果、効率、便利さ、そういったものに現在は価値が置かれているが、もっと大切なものがある。それは、人と人が思いやる暖かい心のあり方であり、お金はもちろん必要なものではあるが、必要以上に求めるものではないという生活のあり方、効率、便利さを追い求めるあまり、失ってしまった大切なものがあるのではないかという自省でした。

 確かに、東日本大震災の後しばらくの間は、私たちの社会のあり方、生活のあり方を見直すということを多くの人々は共有していたように思います。それは、震災という体験から私たちが「学んだ」もののはずでした。しかし、1年経ち、2年経っていくうちに、その学んだことの共有が社会の中から薄らいでいくように思えました。私自身どうかと言えば、上の思いをしっかりと持ち続けていたかと問われれば、自信がありません。体験から私たちは「学び」ますが、その学んだことを自分の血肉とすることはとても難しいことです。個人個人の工夫が求められるのだと思います。

5. 今の日本の社会の姿

A:皆さんへの問いかけ

 一つ、皆さんに尋ねたいと思います。皆さんは、今の日本の社会のあり方、あるいは政治のあり方についてどのような思いを持っているでしょうか。中学生にとってわからないこと、理解するのが難しいこともきっとあるでしょう。しかし、私が皆さんに望むのは、中学生であれば中学生なりに、この国のあり方、政治のあり方について自分なりの考えを持ってほしいということです。どこかで発表するための立派な意見である必要は全くありません。一人一人がそれぞれの考えを持つことが大切だと思うのです。なぜなら、上で述べた「3.グレタさんの問いかけ」の所でも触れましたが、皆さんは高校3年生の時には選挙権を持ちます。その時に自分の判断で投票できる高校生であってほしいと思います。自分の判断の力を養うために次のことを皆さんに勧めます。

・新聞を読む習慣をつけること。私は新聞を読むことを勧めたいのですが、新聞をとってないご家庭もあることと思います。その場合は、ニュースを見て、自分で考える習慣をつけるのがいいと思います。

・読書の習慣をつけること。

・社会で起きている出来事に関心を持つこと。

 大切なことは、社会のあり方に関心を持つ、ということです。「3」で触れた日本の若者の投票率の低さ(若者だけに限りません)は、一つには自分の暮らす社会への関心が低いことから生じているのではないかと私は思います。社会のあり方に関心を示さない人が増えれば、国のあり方は変わりません。悪くすれば、自分たちの望まない方向に国が変わっていってしまう怖れもあります。皆さんには国のあり方を変える力がある、ということを忘れないでいてほしいと思います。

B:日本の社会のあり方、私なりの見方

 私なりに感じていることを記します。「4.大人は体験から学んでいるか」で述べましたように、東日本大震災をきっかけに日本社会のあり方が変わるのではないかと多くの人が思った、と私は思います。私も変わるのではないかと思った一人です。当時の日本の社会は、世界の国々と比べてみても飛びぬけて「息苦しさ」のあった社会であったと思っています。良い面は沢山あり、それは今もあり続けているのだと感じていますが、「息苦しさ」はマイナスの面でした。その「息苦しさ」の原因はどこにあったかと私なりに考えますと、次のものが「息苦しさ」の原因であったのではないかと考えます。

(1) 能力主義(大人も子供も何が出来るのかが問われる社会)

(2) 成果主義(何をなしたかという成果によって人が評価される社会)

(3) 学歴偏重(どこの大学に入学したかが話題となる社会)

(4) 経済優先(理想よりも経済が優先される社会)

 これらのものを追い求めていくと、全ての人が、とは決して言いませんが、ともすると「自分だけが良ければ良い」という姿勢に傾き、「他者への温かなまなざし」が欠けてしまいがちになってしまいます。そうしたことが、「社会の息苦しさ」を生んでしまうのではないかと思えるのです。

東日本大震災から私たちが学んだことは、上に挙げた(1)(4)のものが実は本当に大切なものではない、ということでした。能力に欠ける人は能力のある人に助けてもらえばいいし、ある一面で能力に秀でた人も別の面では欠けている部分もある。「成果」は大事だけれども、「手段」は選ばなければならないし、手段を選ばずに得た成果は、結果的に長い目で見れば大きなマイナスになることもある、など、「息苦しさ」の源を見直す機会を得たのでした。

しかし、残念ながらその「見つめ直す」ことは長続きしなかった、というのが私の実感です。時が経つうちに社会に「息苦しさ」は増し、上に挙げた(1)(4)がまた幅をきかす社会に戻りつつある、戻ってしまったように感じています。

私の実感が果して正しいかどうかは分かりませんが、そう考える根拠となるものを2つほど挙げておきたいと思います。

 一つ目 (4)の経済優先に関わるもの

 今年1月の放送朝礼でお話ししたことです。今年の冬は雪かきらしい雪かきをせず、「本当に大丈夫だろうか。」と心配になる暖かさで、人間だけでなく地球上で暮らす全ての動植物に大きな影響を与えています。グレタ・トゥンベリさんの発言、行動は、経済を最優先に考えるアメリカのトランプ大統領から皮肉られ、EUの外相からは揶揄(やゆ)されています。しかし、これからの未来を生き抜いていかなければならない若者から見れば、「何が世界の指導者だ。」と言いたくなるでしょう。

 私たちの国、日本も温暖化対策にはあまりに消極的です。129日に放送朝礼でお話したことを一部載せます。

 私たち一人一人の生活の見直しが求められています。国のあり方を批判するだけではだめだ、ということはわかっているのですが、日本が地球の温暖化対策にあまりに消極的なことに対して、私たちはもっと批判的な目を向けても良いのではないかと感じます。昨年1211日には、国連気候変動枠組み条約第25回締約国会議、いわゆるCOP25 の会期中、世界の環境団体で作る「気候変動ネットワーク」によって、日本は地球温暖化対策に消極的な国に贈る「化石賞」に選ばれました。その数日前の129日には、地球温暖化対策に逆行するものとして強い批判のある、発展途上国の石炭火力発電所建設に対する援助を日本が今後も続けていくことが明らかになりました。政府関係者は「エネルギー需要が急増するアジアの途上国を中心に石炭火力のニーズがある。現状で輸出戦略を見直す状況にない。」と語りました。温暖化対策よりも日本の経済を優先するということです。さらに、その一週間後の1216日には九州電力が燃料に石炭を使う松浦火力発電所2号機を新たに作りました。石炭火力発電所は発電コストが安く、供給が安定するという、これも経済優先のためです。日本は二酸化炭素を多く排出する石炭火力発電を自国の経済のために推進していこうとしています。果して、経済というものは、地球環境、地球で暮らす様々な命、地球の未来よりも大事なものなのでしょうか。私は、国の進めるべき方向を是非、見直しをしてほしいと思います。皆さんはどう考えるでしょうか。友だち、家族で、話題にしていきましょう。

                          2020129日 放送朝礼より

  

  二つ目 (1)~(4)に関わるもの

 東日本大震災後の日本で起きた大きな事件の一つに、20167月の「相模原市の知的障害者施設『津久井やまゆり園』」の事件があります。約4年前の事件です。この裁判員裁判で横浜地裁は先週の316日に被告に死刑の判決を言い渡しました。皆さんもニュースでご覧になったことでしょう。

 事件についてはここで触れることはしませんが、判決を報じた日の新聞に載っていたノンフィクション作家の柳田邦男さんの言葉が、先に述べた(1)(4)と大きく関わっていますので、引用します。

 「しかし、日本では戦後、旧優生保護法などの社会制度で障害者への偏見や差別が是認されてきた。さらに経済活動の貢献度で人間の価値を測る成果主義、効率主義の価値観が支配し、社会に偏見や差別が脈々と息づいてきた。被告の動機の最も重要な背景要因だ。

 社会が経済優先主義の中で、克服できていない偏見や差別という根源的な問題について、裁判はなぜ踏み込まなかったのか。事前に争点を植松被告の責任能力の有無に絞った刑事裁判に限界を感じた。

 偏見や差別は誰もが持ち得るものだ。ただ、それがあったがために、歴史的にいかに悲惨なことが起きてきたのかを思い返し、社会に生きる一人一人が自分の中にある『内なる偏見や差別』の意識に目を向け、それを克服するための人間観、生命観、社会制度をどのように作り上げていくか、今こそ社会的に議論を深める必要がある。」 信濃毎日新聞(317日)より

 柳田さんの文章の中にある「経済優先主義」を私たちは2011311日の大きな出来事から、見直さなければならないと思ったはずでした。しかし、上記のような事件が起きてしまう。体験から「学ぶ」ということがいかに難しいことかを実感させられます。

   C:教皇フランシスコの言葉から

 昨年、来日し、平和について力強いメッセージを発した教皇フランシスコも、今まで述べて来た経済優先のあり方を見直すべきだ、ということをおっしゃっています。  

 ・隅に追いやられている人のもとへと出向いて行くことは、やみくもに世界を駆けずり回ることではありません。足を止める、他者に目を注ぎ、耳を傾けるために心配事を脇に置く、道端に倒れたままにされた人に寄り添うために急用を断念する。-そのようにしたほうがよい場合がしばしばあります。 『福音の喜び』p49

・今日においては「排除と格差のある経済を拒否せよ」ともいわなければなりません。この経済は人を殺します。路上生活に追い込まれた老人が凍死してもニュースにはならず、株式市場で2ポイントの下落があれば大きく報道されることなど、あってはならないのです。これが、排除なのです。

  同書、P56

 ・目先の結果ばかり求める現代の即時性は司牧に携わる人が、何らかの矛盾、失敗に見えるもの、批判、十字架のようなものを受け入れることを困難にします。 同書、p79

6. 今回の出来事から学ぶこと

私たちは一日を始めるにあたって、毎朝「長野清泉の祈り」を唱えます。祈りは、「日々 わたしのいのちを新たにしてくださる神様」という言葉から始まります。この言葉には、今日の一日を「当たり前」のものではなく、新たに与えられた「かけがえのない一日」だということを忘れない、という気持ちが込められているのだと思います。人間は弱いものですので、大切なことも忘れてしまうことがあります。今日の一日が実は、当たり前ではない、かけがえのないものだということも、平穏な日々が続くと忘れてしまいます。幸い、私たちには「長野清泉の祈り」があります。今回の出来事から学ぶことがあるとすれば、毎朝の「長野清泉の祈り」を常に新しい気持ちで唱える」ということだと私には思えます。「大きな事」ではなく、「毎朝、祈る」というささやかなことを大切に行っていく、それが大事なことかと思います。

7. 最後に、聖書の言葉を

「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」

                           ローマの信徒への手紙 1212

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」

                        テサロニケの信徒への手紙 51618節 

共にパウロの言葉です。

 長い文章になってしまいました。ここまで読んでもらえたかどうか、心配ではありますが、読んで下さった皆さん、ありがとう。お忙しい中、題字を心をこめて書いて下さった米沢先生、味わい深いカットを描いて下さった信太先生、本当にありがとうございました。

 以上を中学3年生に贈る言葉とします。

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桜が満開になりました。(2020/4/9撮影)

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