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校長講話
201904.08
校長講話NO.121中学卒業式式辞「隣人を自分のように愛する、とは?」
中学3年生の皆さん、卒業おめでとうございます。私は様々な場で皆さんが試行錯誤を繰り返し一つのことを成し遂げたり、失敗を乗り越えて絆を深めたりする姿を目にし、頼もしく思うこと、しばしばでした。
保護者の皆さま、本日はおめでとうございます。卒業生がここまで歩んでこられましたのも、保護者の皆さまに支えられていたからこそと思います。
ご来賓の皆さま、いつも本校のことを心に留め、見守って下さっていることに心より感謝申し上げます。
今朝の話を始める前に、聖書を一箇所お読みします。新約聖書の最初に置かれている『マタイによる福音書』22章34節から40節です。いわゆる「隣人愛」について書かれた箇所です。ではお読みします。
ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人人を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。
イエスは、「最も重要な掟は何ですか。」と尋ねられて、2つのものが重要だと答えています。一つは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛する」ということ、もう一つは「隣人を自分のように愛する」ということです。
今朝は、隣人愛とも言われる、「隣人を自分のように愛する」とはどういうことなのかを、山浦玄嗣先生の聖書の訳、マザーテレサの言葉、最後に信濃毎日新聞の記事、3つのものを手掛かりに、私なりに考えてみたいと思います。私たちの隣人、皆さんであれば、例えばクラスの友達、あるいは家族、もう少し広げてイエス・キリストの見方に従えば、社会の中の弱い立場にいる人たち、そのような人たちを「愛する」とはどういうことなのか、一緒に考えてみましょう。
「隣人を自分のように愛する。」、言葉としては理解できますが、では具体的にどう行動するかと考えると、私などはよくわからなくなります。皆さんはどうでしょうか。
まず、一つ目に山浦玄嗣先生の訳した聖書の訳をみてみたいと思います。山浦先生は、東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県大船渡市にお住いのお医者さんです。クリスチャンでもあります。私たちの学校は2014年の夏から大船渡でボランティアをさせて頂いています。山浦先生は、毎年ボランティアのベースにいらして震災当日の話をして下さいます。とてもつらく、悲しい、大変な出来事を、ユーモアを交えてお話なさり、その話しぶりは忘れられません。卒業生の皆さんが中学1年生の時、2016年の秋には本校に来て下さり、全校生に話をして頂きました。
山浦玄嗣先生は60歳になって、ギリシア語を学び、新約聖書の4つの福音書をふるさとの言葉、ケセン語に翻訳しました。「隣人を自分のように愛しなさい。」を山浦先生は次のように訳しています。
「見ず知らずの他人をも進んでおのが身内となし、これをおのれのごとくに大事にせよ。」もう一度お読みします。
「見ず知らずの他人をも進んでおのが身内となし、これをおのれのごとくに大事にせよ。」
山浦先生はこの聖書の箇所で用いられているギリシア語のアガパオ―という言葉は、「愛する」の意味ではなく、「大切にする」「大事にする」の意味だと言います。有名な「あなたの敵を愛しなさい。」というキリストの言葉も、「敵(かたき)であったとしても大事にしろ」、「自分の苦手な相手であっても大切にしろ」の方がキリストの言ったことに近いと述べています。「自分の隣にいる人を自分と同じように愛しなさい。」と言われると、どうしたらよいかわからなくなります。「自分の隣にいる人を自分と同じように大事にしなさい。」であれば、行動に移せそうですね。
「隣人を愛する」というより、「隣人を大切にする、大事にする」と言うほうが、言葉がしっかりと地に足を付けているという感じがします。「隣人を大切にする」ということは、具体的にどうすることかをもう一歩踏み込んで考えてみたいと思います。
二つ目の手掛かりとして、マザーテレサの言葉に耳を傾けてみます。マザーテレサは次の様に言ったと言われています。
「愛の反対は憎しみではなく、無関心である。」もう一度、お読みします。
「愛の反対は憎しみではなく、無関心である。」
このマザーテレサの言葉に添って考えると、「愛する」ということは「関心を持つ」と言い換えても良いように思います。「隣人を愛する」ということは山浦先生の訳に従えば「隣人を大切にする、大事にする。」ということになります。さらに、マザーテレサの言葉をヒントにすれば、隣人に無関心ではいない、「隣人に関心を持つ」ことだと言えます。「隣人に関心を持つ」、その人の言ったことを聞き流すのではなく、関心を持って耳を傾ける、その人の存在に関心を向ける、さらには弱い立場の人たちの存在に無関心ではいない、これは心の持ち方としてとても具体的なことです。
最後に、私が感銘を受けた一つの新聞記事を紹介して、「隣人を愛する」を巡る今朝の話を終えたいと思います。東日本大震災の起きた3月11日を迎える前、3月9日の信濃毎日新聞に復興を縁の下で支えてきたとも言える方の記事が載っていました。
71歳のマッサージ師、茨城県水戸市で治療院を開いている方についての記事です。震災の起きた2011年の9月頃から被災地から水戸に避難してきた人々の中に、一人二人とそのマッサージ師の治療院を訪れる人が出て来たそうです。避難の呼びかけに応じ、着の身着のまま逃げ出し、避難所を転々とし、ようやく水戸市に落ち着いたという人や、身体がボロボロになるまで様々な要望に対処し続けた東京電力の社員の方も治療院にやってきました。このマッサージ師が「しばらく泣いていきなよ。」と声をかけると、避難してきた方も、東京電力の方も本当に泣いてしまったそうです。そのマッサージ師の方は次の様に語っています。「自分には問題を解決することはできない。話を聴くしかない。ただ一つ、心掛けたことがある。『私はあなたに関心がある。』という気持ちで聴くんです。残酷な時の流れの中で、今もつらい思いでいる「あなた」に関心がある、という気持ちで。」
この記事を読んだ時、私は、この方はキリストの言う「あなたの隣人を愛しなさい」ということを、日々実践している方だと思いました。自分と関わりのある人に、無関心でいないこと、これがイエスの言う「あなたの隣人を自分と同じように愛しなさい。」ということであるならば、私にも少しは実践できそうな気がします。イエスは「隣人愛」という言葉から想像される立派な行いを私たち、人間に求めてはいないのだと思います。自分と関わりのある人とまずは暖かな人間同士の関係を築きなさい、困っている人たちに無関心でいないようにしなさい、と言っているように思うのです。
皆さんは中学を卒業し、4月からは新しい生活が始まります。皆さんの世界も少しずつ広がっていきます。その生活の中で、頭の片隅に、イエスが最も大切だと言った「隣人を自分のように愛する」とはどういうことだろうという問いを持ち続けてほしいと思います。そして自分なりの答えを見出していって下さい。
卒業式風景
卒業式後教室にて