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News 清泉日記
清泉日記
201211.01
No18「放送朝礼講話『だから、負けるな』」
授業で”声”と称し、生徒の皆さんから様々な意見をずっと記して頂いています。数年前のある”声”を事ある毎に思い起こします。
<学校には、みんな似た人間がいるわけではない、たいていの先生が見えるのは、うるさい子、明るい子。見えないのは、暗い子、おとなしい子。先生は見えていますか?>
この文章には上手な挿絵があった。薄暗いステージの後ろには、「暗い子、おとなしい子」が数名、無表情で描かれている。それとは対照的に、ステージの前では、スポットライトを浴びた、表情のある「うるさい子、明るい子」がいる。その生徒は訴えかけるのです、「先生は見えていますか?」、その普段は見えていない生徒のことを、そしてこの私のことを。
先日、クラスの生徒の方から言われてしまいました。ある事があり、クラスの何人かと話している最中にでした。「結局、先生は見えることしか見ていない」と。今もその言葉が突き刺さってくる。
教師とは ―少なくとも僕は― 「見えている」ものしか見ていないのではないか。「見えているもの」、成績は目に見える。学力向上は大切です。そして「至上命題」です。また「身だしなみ」や髪の毛の色は、すぐに分かってしまう。クラスの出来事も、表面に出る限り、そこは「見えている」のです。だから「対応」に走る。でも「見えていない」、本当に大切なものを見ているのかということです。
旧約聖書の有名な言葉を紹介したい。サムエル記です。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上16:7)。主なる神様は、見ておられる。「見えていない」人間のありのままの姿を、それこそ「心」をご覧になられる。私たちの悩みを、苦しみを、コンプレックスを、そして醜さを、そうです、憎しみの心、妬みの心、その心をご覧になられる。しかし神は「高見の見物」をされない。その人間の姿をご覧になられ、この世に下られ、人間となられた。それが主イエス・キリストです。その方が、最後には十字架にかかり、私達の全てを ―聖書ではそれを「罪」と呼びますが― 我々の全てを担われた。そして私達を許し、生命への道、愛の道、まことの希望へと導いて下さる。
時折、思い起こす、ある思想家の言葉があります。「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあります。…そこでしか神様にお眼にかかる場所は人間にはない…。人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことはできない…」。
神は、私達の「心の一隅」に、心の片隅に降りてきて下さった。そして私たちの全てを共に担われる。神は私たちと同じように試練に会われ、苦しんでおられる。その姿が十字架の姿であります。
今、人知れず試練の中にある方。負けるな。皆さんには、大切な友がいます、親もいます。そして我々教師だっている。そして私達のために「試練を受けて苦しまれた」神がおられる。私たちの神は、私たちに「耐えられないような試練」を与えられない。この神は、共に苦しんでおられるのです。「人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、恥じてい」ても、神が共に苦しんで下さる。そして必ずに「逃れの道」を備えて、よき「助け」をお与え下さる。だから、負けるな。この一日も、この神の祝福があるようにと、祈るものであります。以上です。
(2012年10月13日放送朝礼講話より、写真:校内のキリスト像)