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清泉メッセージ

201310.30

No20「髪の毛、振り乱して」

IMG_9393.JPG私の高校時代、授業で聴いた言葉の中で、今でもはっきりと覚えている言葉があります。当時、30台の国語の女性教師。女傑とでも言うべき、強烈な個性の持ち主。ただ授業が本当に面白かった。噂によると、彼女がT大時代には、学生運動の闘士であったらしい。僕たちは親しみを込めて、彼女のことを「スギイ」と呼んでいました。この「スギイ」先生が、高校1年生であった僕たちに、こんなことを授業で言われた。「今のうちから、髪の毛、振り乱して、何かをしなさい」。

僕がいた学校は、東京の渋谷にある高校で、東京でも「おしゃれ」で通っていた学校でした。共学で、しかも女の子の方が頭がいい。彼女たちは実におしゃれにも気を使い、髪の毛をきれいにセットしている。男子生徒もそんな女の子に負けじと、おしゃれで、かく言う僕も、例外ではなかった。その我らにスギイは語るのです。「髪の毛、振り乱して、何かをしなさい」。

今、改めてスギイのことを考える。彼女があの授業をするために、それこそ「髪の毛、振り乱して」、どれ程の努力をしていたことであろうか。そしてスギイが、どんな思いでその一言を、我らに語っていたことであろうか。

今、皆さんに問います。皆さんは今、「髪の毛、振り乱して」、何かをしていますか。懸命に何かに励んでいますか。僕の高校はプロテスタントの学校でしたが、カトリックの学校においては、「髪の毛」が「振り乱れて」いてはいけない。「髪の毛」はきちんと「結ぶ」ものでしょう。でも今のこの時期に、「髪の毛、振り乱して」、何かをすることは、この上もなく、大切だと思う。母校の大学の先生が語りました。「青春を喪(うしな)う者は、生涯を喪う」と。

私は思う。私たちは、何かに一生懸命に打ち込むために、神様によって造られたのではないだろうか。聖書によると、私たちは「神にかたどられて」、「神に似せて」造られたのです。神様ほど、一生懸命な方はおられない。私たちを救おうとされて、挙句(あげく) の果てには、人間になられ、十字架にまでかかって下さった。こんなにまで、一生懸命な神様は、他にはおられない。だから私たちも一生懸命に何かに打ち込む。

夏期休暇が終りました。もしかしたら、皆さんの中には、その休暇の中においても、ずっとあることで、悩んでいた方もおられましょう。「髪の毛、振り乱せ」と言われても、その悩みによって、今も、心が千々乱れておられる方です。そのあなたに申し上げる。だからこそ、今、自分の悩みをかなぐり捨て、「髪の毛、振り乱し」、何かをする。私たちの重荷は、神が担ってくださっている。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネによる福音書3章16節)。だから私たちは、どんな時も、「髪の毛、振り乱して」、自分の業(わざ)に励むしかないのです。

特に高校3年生。「髪の毛、振り乱して」、進路を切り拓いてほしい。神が共に歩んで下さるのです。そして、今この放送を聞いている皆さん一人ひとりに、そして人知れず、悩みの中にある方に、神様の祝福が豊かにあるように祈りたい。そして、この一日も、「髪の毛、振り乱して」、それぞれの業に励む私たちであります。

(写真と本文とは関係がありません。)

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