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校長講話

201903.20

校長講話_NO.120 高校卒業式式辞「言葉について」

 今年は例年になく雪の少ない冬でした。力強い日差しの中、あちらこちらに命の躍動を感じるこの時、今年もこのように卒業式を行えることを心から感謝したいと思います。

 高校3年生の皆さん、卒業おめでとうございます。皆さんは3年間、あるいは6年間で、学業はもちろん、心も豊かに育ててきました。そのような皆さんが卒業していくことは淋しくもありますが、大きな喜びでもあります。

 保護者の皆さま、本日はおめでとうございます。皆さまの大きな愛と、暖かな支えによって、生徒たちは今日を迎えることができました。

 ご来賓の皆さま、平素は様々な場で本校を支えて下さっていることに心より感謝申し上げます。本日は卒業式にご臨席を賜り、誠にありがとうございます。

 今朝は、「言葉」について3つの角度からお話をしたいと思います。一つ目は言葉そのものについて。二つ目は、言葉には社会を動かす力があるということについて。最後に言葉について聖書のメッセージを私なりに読み取ってみたいと思います。

まずはひとつめですが、言葉そのものについて少し、考えてみます。私たちは生まれてから少しずつ色々なものを使い始めますが、手や足に次いで早い時期に使い始めるのが言葉です。普通、道具と言うものは使えば使うほど、その使い方に習熟していきます。しかし、私たちは物心ついた時から言葉を使い続けていますが、使えば使うほどその難しさに気付いていくのが言葉というものではないでしょうか。人と人とのやりとりの中で言葉を使う時に、難しさを感じることがしばしばです。それは言葉は単なる道具でではなく、その中に命を宿しているからかもしれません。

 新約聖書、4つの福音書の最後に置かれている『ヨハネによる福音書』の第1章、4節にはこうあります。

 「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」「ことばの内に命がある。」、印象的な箇所です。

 皆さんにお聞きします。「ことばづかい」と言いますね。頭の中で「ことばづかい」と漢字で書いてみて下さい。書けましたか。「つかう」という字を皆さんはどう書いたでしょうか。「つかう」という漢字は2つあって、一つは「使用中」という漢字で使われるニンベンの「使う」ですね。もう一つは「派遣」という漢字で使われるシンニョウの「遣う」です。辞書で調べてみますと、ニンベンの「使う」は「使用する」の意味です。一方、シンニョウの「遣う」は、「物などを、心、頭を働かせて工夫して動かす」の意味だそうです。言葉は単に使用するものではなく、心と頭を働かせて用いるものなので、「言葉遣い」という時には、シンニョウの「遣う」を用います。言葉は単なる道具ではないということが、漢字からも伝わってきます。 

 次に二つ目ですが、命を宿した言葉には社会を動かす力がある、ということについてお話しします。競泳選手の池江璃花子(りかこ)さんがツイッターに記した言葉についてお話しします。池江さんは卒業生の皆さんと同じ高校3年生です。昨年8月のアジア競技大会での活躍は記憶に新しいことと思います。先月、ご自分の白血病を公表しました。池江さんはツイッターの中で次の様に記しました。お読みします。

「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています。もちろん、私にとって競泳人生は大切なものです。ですが、今は完治(かんち)を目指し、焦らず、周りの方々に支えていただきながら、戦っていきたいと思います。」

 言葉の持つ力強さを私は感じました。皆さんも感じたことでしょう。使徒パウロの書いた「コリント信徒への手紙一」の1013節、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、」という言葉も思い浮かべました。

 10日程前の信濃毎日新聞に、次の記事が載っていました。池江選手が白血病を公表してから、治療法の一つとなる骨髄移植のドナーを斡旋する「骨髄バンク」へのドナー新規登録者が県内で急増しているという記事です。記事によりますと、長野県赤十字センターの献血ルームと出張所の計3か所では、池江さんの公表の翌日から220日までの8日間の新規登録者が119人に上り、昨年4月から今年1月までの10か月間の新規登録者数115人を上回ったとのことです。登録者数を増やすには、関係の方々が様々な努力を日々なさっていることでしょう。そして、地道な努力によって少しずつ増えていくのだと思います。しかし、今回はわずか8日間で10か月の登録者の数を越えてしまったのです。池江さんの力のある言葉が社会を動かしているように私には思えます。 

さて、聖書では言葉についてはどのように記されているでしょうか。私なりに聖書のメッセージを読み取って今朝の話を終えたいと思います。先ほど「言(ことば)の内に命があった」という『ヨハネによる福音書』の聖句について触れました。『ヨハネによる福音書』第1章は次のように始まっています。お読みします。

「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。」

 また、旧約聖書の最初にある『創世記』第1章の天地創造の場面は次のものです。

「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。」

 言葉には社会を動かす力があるとお話ししました。聖書では言葉にはこの世界を創り出す力があったことが示されています。聖書においては、新約聖書、旧約聖書共に、言葉はこの地上にあるものの中で、とても大事なものとして考えられていることがわかります。

 イエス・キリストは言葉をどうとらえていたのでしょうか。『ルカによる福音書』645節にはこうあります。

 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

 最後の「人の口は心からあふれ出ることを語るのである。」とは、私たちの語る言葉は私たちの心そのものであると言っています。つまり、私たちは私たちの語る言葉によって、私たちの心を人に示していることになります。私たち人間は完璧な存在ではありません。時には使う言葉によって失敗することもあるでしょう。だからこそ、イエスのメッセージ、「私たちは私たちの語る言葉で私たちの心を人に示している。」ということを、心に留めておきたいと思うのです。

 最後に使徒パウロの言葉を皆さんに贈りたいと思います。『コロサイの信徒への手紙』4章の6節です。

「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」ちょうどおいしい料理を差し出すように、塩で味付けされた言葉を使いなさい、とパウロは勧めます。もう一度お読みします。「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」

 自分の使う言葉を大切にして、これからの山あり谷ありの人生を元気に歩んで行って下さい。

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3月5日に行われた卒業式の様子

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